田中文佳(2021年度 本科/社会人)
モジュール5は「多様な立場の理解」が大きなテーマです。第1回目は一般財団法人水俣病センター相思社の理事である永野三智さんにお話しいただきました。小中学で必ず学習する水俣病ですが、教科書の記述では見えてこない当事者の苦しみを知る貴重な機会になりました。
水俣の人々の葛藤と患者の苦しみと相思社
「患者はずっと、見捨てられた存在であり続けた。」と永野さんは言います。加害企業と一体化して発展してきた水俣は、行政や経済、住民の生活や思考にまで加害企業の影響が及び、水俣病訴訟や補償金等の救済措置までもが住民間の分断を招きました。そのような状況は患者の苦しみを大きくしただけでなく、患者であることを隠すために患者を差別するという矛盾、患者だと声をあげられない状況を作り出しました。水俣病訴訟の勝利が見えた時、「勝ってしまったら地域住民に何と言われるか」を危惧するほどの状況でした。訴訟団の人たちが創設したのが相思社で、最初に作ったのが、亡くなった患者たちを悼む仏壇でした。「患者たちが、忘れたいと思うほどの辛さを本当に忘れることができた時に、何をわすれたかったかを思いだす場」が必要だという思い、これが相思社の原点です。患者たちの記録が20万点あり、この記録の作成は現在も続けられています。水俣においては「私たちの存在を認めてほしい」「加害企業に、水俣病患者がいると認めてほしい」という願いすら叶えられたことはなく「患者たちの名誉回復は未だ行われていない。」と永野さんは言います。
たくさんの当事者たちと「もやい直し」
加害企業と患者以外にも色々な立場の当事者がいました。加害企業で働き水俣病の原因に気付いていた医師、加害企業の労働者などです。罪を償いたいと考えて、後に患者側の立場に立つ人たちもいました。「水俣病」という病名をめぐっても当事者たちにとってのご都合主義が見え隠れします。病気の発見者としての権威づけ、前例がないという言い訳に利用されました。病気の原因は解明されているけれど、差別が起きた原因は解明のないまま。地域では「絆再生」のための活動である「もやい直し」が行われるようになっていました。3年前の選挙以降、行われなくなっています。行政は、科学は、地域は一体何ができたのだろうかという問いは今も残されています。
永野さんの思い
永野さんが相思社で活動を初めて13年、この間多くの方が亡くなっていきました。患者たちが語る「忘れたいほどの苦しみや辛さ」を、患者ではない自分は「わからない、でもわかりたい」、そして「どんな風に伝えられるか」を問い続けてきました。「患者ではない自分達に何が語れるのか」という葛藤は、他の職員の方も同様だったそうです。葛藤の末にでた一つの答えが、患者ではない自分だからできることがある、という思いでした。また、亡くなった患者たちが遺した道具やモノが語りかけてくる力の大きさも感じたそうです。現在は、亡くなった患者たちが使っていた道具やモノ、建物や船などを歴史考証館に集め、保存・展示しています。また、患者の聞き取り調査には、大学生が参加するなど、担い手に広がりも出ています。彼らの様な活動が続けば「希望を感じる」「社会を作っていける、と思える」と永野さんは話します。永野さんは、最後にこれからも自分にできることを探していく、と語られました。科学に何ができるか、行政には、教育には、私たちにも問いが託されました。永野さん、ありがとうございました。