JJSCでは外部のご意見を頂き、編集方針等を改善していくため、アドバイザー制度を設けています。第30号に掲載の論考についてアドバイザーから、コメントをいただきました。公開の許可を頂いたコメントについて公開いたします。
竹田宜人 北海道大学 大学院工学研究院 客員教授
多様性、融合、持続性など、30号に掲載された論文には共通するキーワードが存在する。いずれも、昨今の社会情勢において、社会の持続可能な発展を論ずる場合に不可欠な概念である。加えて、前者の二つの論文は、教育と科学技術コミュニケーションの協働や相互補完を論じたもので、現在の科学技術コミュニケーションの機能を考察するうえで興味深い。
徐々に落ち着きを見せつつあるとはいえ、感染症の拡大により、私たちは対面による対話の機会を制限されるという経験をした。本誌でも29号で関連した小特集が組まれている。さらに、同時期に分断という単語が様々なシチュエーションで語られ、コミュニケーションの重要性が様々な場面で指摘されている。
科学技術コミュニケーションでも教育であってもその根底は対話である(対面式であるかどうかは問わない)、よって、その機能や効果は重複し、補完しあうところも多い。概念を整理し、普遍的な特徴を抽出し、その行動に名称をつけ識別することは、学術研究で一般的に行われている活動である。
しかし、実践の場面では、そのような分類はさほど重要ではないこともあり、その場の目的にそった場づくりや運営の工夫があり、ボーダーレスで学問的な分類を越えた活動が存在するように思う。科学技術コミュニケーションの研究のフィールドは実践の場である。このような社会情勢であるからこそ、気づくことも多いのではないだろうか。本論は30号を構成する論文において、共通するものに注目して論じたものである。
科学技術コミュニケーションのシティズンシップ教育への応用 ~参加型演劇「私たちが機械だった頃」を用いた授業 「討論と評決」を事例として~
シティズンシップ教育とは、市民社会を構成する人としての心構えや役割を学ぶものと理解している。この取り組みは、多様な意見を知る、協働的な学びを目的として、科学技術コミュニケーションの一手法として確立された参加型演劇をシティズンシップ教育に用いたものである。同じコンテンツを、それぞれの目的に応じて共用することの可能性を示しており、対話の方法(メディアの多様化)を踏まえると、分野に縛られることないコンテンツの記録と共有化が他分野への展開につながる好事例ともいえるだろう。
科学技術コミュニケーションの成立への科学技術社会論の影響を考えると、科学と民主主義の関係は継続して論じられてきたテーマでもあり、シティズンシップ教育とは共通した価値や目的を有しているといえる。例えば、著者が発した問い「「多様な意見を知ること」は合意形成に至らないがゆえに,ゴールとしては合意形成よりも劣るのだろうか」は、リスクコミュニケーションにおいても、同様な議論が繰り返されている。答えは「否」であるが、実践においてはゴールを合意形成に求めることも珍しいことではなく、教育や学術的な立場と現場の期待や要求との乖離と解釈することもできる。
著者が、「エイジズム(年齢差別)につながる回答」に着目しているのもその一つの例と考えることもできる。意見の多様性の尊重と倫理的な配慮は、時に相反することがある。教育では主催者が介入する必要もあるとしているが、介入の根拠はどのような価値観を背景にしたものだろうか?価値観の押し付けにならないだろうか?これは、私たちが問い続ける共通の課題ともいえるだろう。
オブジェクト介在型学習による分野横断型学習と科学技術コミュニケーション : 学術・文化コモンズとしての大学博物館の機能に着目して
繰り返しになるが、パンデミックは、対話や情報のやり取りの在り方に大きな変化を与えた。博物館のオンライン公開の現状については、本誌でも室井らが「COVID-19 感染拡大下における博物館施設のオンライン発信の傾向と分析」として報告している。人が集合できない状況において、資料のデジタル化やその公開は、新たな博物館の機能や役割として定着したといえる。しかし、著者が「多種多彩な資料のデジタル化が進む過程で,デジタル化の不可能な手触りや重さ,あるいは質感といった「モノそのもの」に付随する情報の価値が見出され」と指摘しているように、リアルさが持つ価値は、パンデミック下における制限からの解放への要求と相まって高まりを見せているように思う。著者が、「オブジェクト介在型学習があらためて注目されるようになった」としている背景には、社会事情の変化もあるのかもしれない。
加えて、本文中に「学校教育と社会教育、フォーマル教育とインフォーマル教育といった従来の枠組みに囚われず,現代社会におけるあらゆる学びの動機やあり方を許容」や「社会の持続可能な発展をにらみ,学問分野の垣根を超えた異分野連携・融合に向けて,分野横断型学習の必要性」などの既存の枠組みへの疑問を背景とした提案がいくつか見られることに注目したい。
それは、著者が博物館を言説空間としての公共圏として捉え、市民の誰もがアクセス可能な議論の場として考えていることと共通性があるように見える。「モノを中心に据えつつも「みんなで一緒に考えること」、すなわち共感や協働が重要である」とした主張は、普遍的な概念であるが、人々の社会的活動の基本でもあり、そこに議論が立ち戻っていくことは興味深い。
福岡県におけるサイエンスカフェの実践記録分析:サイエンスカフェの継続性に注目して
本論は、福岡県内のサイエンスカフェの運営状況について,その継続性に着目して、その要因を「特定会場での開催」と指摘したものである。また、サイエンスカフェを現代の文化活動のひとつとして捉え、将来の研究対象や継承を目的として、サイエンスカフェの実践記録とその公開促進の事業化を提案したものである。
サイエンスカフェだけではなく、環境、自然、科学等を題材にした教育や情報発信の活動は、多様な主体が様々な方法で取り組んでいる。筆者の経験からではあるが、博物館などの経営基盤が確立している組織ではない場合、その継続性は大きな課題である。
本稿でも、「継続的サイエンスカフェ」16事例のうち、民間(非研究者)が主体となっているのは1事例(開催場所の閉店により休止中という)であり、他は大学や行政、公的な研究機関であることを報告している。また、経験則としながら、研究者が主体となっているのは、講師の選定・依頼のしやすさや固定化された会場の存在などを指摘している。言い換えれば、企画者、実践者も含めた実施組織が経済的に安定し、リーズナブルに利用可能な施設が存在することが継続的な運営を可能にする要件といえる。
科学技術コミュニケーションを社会に実装するためには、持続可能な要件を整えることが不可欠であることは言うまでもない。本稿から、アーカイブ的な機能も持つ常設的な場を設けることが、大学や博物館、研究所等の科学技術コミュニケーションの役割として明示され、そこでは研究者のアウトリーチばかりではなく非研究者の活動も支援する、そのような活動の形が見えたように思う。
全体を通じて
現在の科学技術コミュニケーションは、多様な形を見せているものの、②で示したように根底には、「みんなで一緒に考えること」への共感があるように思う。30号は、教育との係わりに関する論文を比較しながら読むことができたため、30号としてのメッセージが生まれたものと考える。特集ではなくとも、このような構成は学術誌としての価値を高めるものではないだろうか。
編集後記の前半部に30号に収載されている論文が簡単に紹介されている。読者がページを開いたとき、どのような論文が掲載されているのか、このような紹介があると、読みやすさやメッセージ性も増すようにも感じた。
加納 圭 滋賀大学 教育学部 教授
本号の特徴の1つは、科学技術コミュニケーションの教育分野への応用可能性が示されたことにあるだろう。また、「継続は力なり」ということをあらためて実感できた。
福島・種村は、参加型演劇という新たな市民参画手法を提案するだけでなく、それをシティズンシップ教育につなげた。棚橋・山本は、大学博物館におけるオブジェクト介在型学習を提案し、農学部・工学部の学生の教育につなげた。これらの実践により、科学技術コミュニケーション手法が中等・高等教育に貢献できる可能性が示された意義は大きいだろう。個人的には、初等教育への応用可能性も十分にあると感じた。今後初等教育への貢献を報告する事例が出てくることを願いたい。
三島・小林・吉岡は、福岡県におけるサイエンスカフェの継続性を調査し、過半数の団体が継続的に実施していることが分かった。サイエンスカフェという手法自体が比較的気軽に提供・参加できることもあるのだろうが、やはり「継続は力なり」で、十分に地域に根付いていることが伺える。資料価値も高く、著者らが指摘するように、アーカイブ化が望まれるだろう。
本誌も継続15年。これまで全ての論考がオープンアクセスで出版されてきた。これからも多くの方々の科学技術コミュニケーション実践・研究の縁の下の力持ちであり続けることを期待したい。