2017年9月12日(火)の夜、確率カフェ「ありえないはありえない~極めて低い確率の哲学」と題したトークイベントを開催しました。ゲストは確率の哲学が専門のアラン・ハイエクさん(オーストラリア国立大学 教授)。聞き手は科学哲学が専門の松王政浩さん(北大理学研究院 教授)です。
(ハイエクさん(右)と松王さん(左))
会場は総合博物館の知の交差点。「確率」「哲学」という難しそうなテーマでしたが、事前申込枠は早々と埋まり、定員を超える35名以上の方が集まりました。各々ビールやジュースを手にしながら、確率カフェが始まります。
(「ありえないこと」の象徴であるブラックスワンを描いたポスターがお出迎え)
まずハイエクさんから、非常に低い確率と、それに対する判断には、実はよくよく考えるべきことが含まれている、というお話がありました。通常の統計学では、極めて低い確率の場合、それは起こらない、と考えます。つまりある出来事が起こる確率が1~5%以下であれば、それはありえない、とされるのです。
一方で異なる考え方もあります。かつてアメリカのチェイニー副大統領は「パキスタン人の科学者がアル・カイダの核兵器製造を助けている可能性が1%でもあるならば、我々はそれを確実性のあることと受けとめて対処する」と言いました。これをハイエクさんは多少の皮肉も込めて「チェイニーの理論」と呼びます。
私たちはどちらの考え方に立てばよいのでしょうか。これは単に数学的な議論ではなく、私たちの日々の判断とも繋がる問題です。ハイエクさんは極めて低い確率を除外しないことを「寛容さ(open-mindedness)」という概念として示し、私たちは寛容であるべき、としてお話を続けます。
ハイエクさんが次に取り上げたのは、「確率ゼロ」についてです。実は、「低い確率」だけではなく、「確率ゼロ」についても難しい問題があるというのです。まったく不可能なことがらAが起こる確率は、もちろんゼロです。しかし、「不可能なことがらAが起こるという条件で、Aが起こる」という条件付き確率P(A|A)は、いくらでしょうか?これは直観的には「1」です。けれども、条件付き確率の一般的な定義P(A|A)=P(A&A)/P(A)では1になりません。分母がゼロで、計算ができないからです。つまり、私たちが当たり前と思っている条件付き確率の定義が、「確率ゼロ」をめぐって完全ではないことがわかります。
ハイエクさんは、こうしたことから、そもそも確率を基礎から考えようとするときには、条件付き確率そのものから出発する(比の形に分解しない)ことが必要だと主張します。初めて聞く話ですが、私たちはこの話で、さらに確率への興味が掻き立てられます。
私たちの意識がぐんと高まったところで、ハイエクさんは改めて「低い確率」の問題に誘います。考えるのは、低い確率と「効用」の関係です。ハイエクさんはまず、有名なパスカルの賭け(神を信じる方に賭けるか、信じない方に賭けるか)の例を示しながら、ある選択肢の効用が無限大であれば、確率がどんなに低くてもその選択肢を選ぶのが理にかなっていると述べます(無限大の危害であれば、確率が低くてもその選択肢を避けることが理にかなっている、ということです)。
現実には無限大の効用、あるいは無限大の危害はおそらくないでしょう。しかし、たとえば人類に破滅的な影響を及ぼすことがらはどうでしょうか?地球温暖化のシナリオに、極めて低い確率でも、そのような破滅的な予測が含まれていたらどうでしょうか?ハイエクさんは、最後の再びチェイニーの顔写真を示しつつ、このような効用(危害)の非常に大きなことがらについては、「低い確率だから無視してよい」という考え方が成り立たないことを示して、話を締めくくられました。
(複数の地球温暖化のシナリオを示しながらお話するハイエクさん)
(休憩時間に通訳さんのサポートを受けながら会場からの質問カードを見るハイエクさん)
本イベントはCoSTEP・文学研究科哲学講座・理学研究院科学基礎論研究室が主催し、応用倫理研究教育センターと総合博物館の後援、ミュージアムカフェぽらすの協力で実施しました。