これは、家にお金を消費しない暮らしに挑むアートだ。
村上は「いるだけで価値を見出す」ことを目指して、芸術祭期間中、家そのものが広告になっている家に住むことを計画した。
消費をしない暮らし方を追求しながらも、広告で収入を得るというバランスのとり方が絶妙で、そこになんともいえない現実味を感じる。
実験の様子。家の壁ともいうべき三角柱の側面が、SIAFの広告になっている。私には家というより、広告にしか見えない
SIAFは2月に開催される予定だった。当然、この時期の札幌は極寒だ。
そこで村上は、床面に敷き詰めた落ち葉を発酵させることで発生する熱を暖房代わりに、さらに雪を断熱材代わりにするという驚くべき工夫で、あくまでも人工的なエネルギーを使わずに暖を取ることを考えた。暖房設備が充実している札幌の家に住み慣れた私にとっては、正直なところ、本当にそれだけで寒くないの?せめてカイロ欲しくならない?と耐寒性への疑問が拭えない。
ところで、広告の家で生きるってどんな感じがするのだろう。自分のアイデンティティーがわからなくなりそうな気もするし、そんなに大したことではない気もする。店舗一体型の住宅と似ているようだけど、広告主は自分ではない他人だ。だとすれば、なんだか家がよそよそしすぎやしないだろうか。
ちょっとだけ、一日くらいなら、そんな家で過ごしてみるのもありかもしれない。なにか見えてくるものがあるのだろうか。ただし、そのとき私は常に温かいお茶を握っていたい。
さらに村上は、家だけでなく生活アイテムまでもを広告にしようと考えた。
衣類や生活用品に、広告という役割をもたせることができるなんて、そんなこと私は一度も考えたことがなかった。人間って、人目につくところで生きていくだけで広告になれるのか。
使うもの全てにSIAFのロゴ。私のお気に入りは足跡がSIAFになる靴底。
しかし私はここで一つのことに気がついた。
私も胸元に大きなブランドロゴが入ったパーカーを着たり、ひと目でどこのメーカーかわかるようなリュックを背負ったりしているではないか。しかもそれらの商品を手に入れるために、当たり前のように私はお金を消費しているではないか。
村上の”家”ではこのお金の流れが逆になっている。私が普段お金を支払って得ている家や衣類や生活用品から、村上はお金を得ようとしているのだ。
私の母はよく「生きることは結局、消費し続けることだから」と言っていた。私も無意識にそうだと思っていた。
それが今回、村上の”家”に出会って、私の中にあった生きることと消費することとの関係性がぐらぐらしてきた。
生きることって、ほんとうに消費することなんだろうか。