著者:イヴァン・イリッチ(書評本文では「イバン・イリイチ」と表記)
訳者:東洋・小澤周三
出版社:東京創元社
刊行:1977年10月20日(原著は1971年)
定価:1,870円(税込)
「それ、教わっていません」って言っていませんか?
私たちは日々何の疑いを持つことなく当たり前のように学校へ通学しています。
中世以前は支配階層や富裕な階層でなければ学校に通うことはできませんでした。「生まれ」によらず皆が平等に学校に通えるようになったことは近代教育の大きな成果です。ですが、逆に学校制度が確立することで学習が「学校化」されてしまい、本当の学習が阻害されているのではないか。これがオーストリア出身の哲学者イバン・イリイチの指摘です。
「学校教育の基礎にあるもう一つの重要な幻想は、学習のほとんどが教えられたことの結果だとすることである。たしかに、教えること(teaching)はある環境のもとで、ある種類の学習には役立つかもしれない。しかしたいていの人々は、知識の大部分を学校の外で身につけるのである」(32頁)
よく「教えられていないからできません」「こういう内容、学校では教えてくれなかった」ということを口にする人がいます(学校教員として関わった生徒にも時々いました)。この姿勢、本来なら自力で身に着けるべき内容であっても他者から教えられるのをただ受け身で待つのと同じです。もっと言えば〈独学は危うい〉〈人に教えてもらう知識だけが正しい知識だ〉と誤解するようになってしまいます。結果、「学習のほとんどが教えられたことの結果だ」と考えてしまうことに対し、イリイチは「学校化」として警鐘を鳴らしたのです。
学校や大学という制度は「どの知識が正しくて、どの知識が劣っているか」序列を与える場所であるといえます。これは確かに近代科学の発展をもたらしましたが、例えばよく言われるように途上国や先住民の文化の否定・批判につながるなど種々の問題が生じる結果となりました。実際、本書においてもイリイチはラテンアメリカやアジアの視点から今後の社会制度のあり方を展望します。
実際、世界の教育制度史を調べてみても、地域コミュニティに基づいた祝祭や行事を学校制度が破壊していく流れが研究されています。このことからもイリイチの指摘の正しさを実感することが出来ます。
「制度化」がわれわれを蝕んでいる
本書のもう一つのテーマは「制度化」批判です。制度化とは本来は便宜的に設けられた仕組み(制度)がいつの間にか独り歩きし、制度に従うことが正しいことであると人びとが誤解していくことを指します。
ここで観てきた「学校化」という概念は広く見れば「制度化」の一種です。それは本来教育を効率的に行なうための便宜的な仕組みが「学校制度」だったのにもかかわらず、気づけば学校に行かないで得た知識や経験には意味がないという誤解を気づかぬうちに招くようになってしまったからです。
考えてみると、本来教育というものはコミュニティが自らのうちでおこなっていたものでした。農作業をともに行うことで農業の知識を学び、村の寄り合いに参加するなかで地域の歴史や伝統を自然のうちに学び取っていたものだったのです。
ところが、近代に入り、公教育制度ができたことで自ら教え合う・学び合うコミュニティ内での営みが消失しました。かわりに学校だけが教育を独占するようになります。本来は教育を効率的に行うためにできた学校制度が、逆に「学校を用いずに学ぶことは危ういことだ」「学校の外で学ぶことは価値が低いことだ」と考えられるようになるのです。
このあたりの部分、元・高校教員としていま読むとハッとすることも多いです。それは学校を良くしようといくら努力したとしても「学校化」「制度化」を逆に推し進める形になるという指摘になるからです。
よく行われている教育改革では「学校をもっと良くする」方向を目指しています。。実はその方向性自体が「学校化」を推し進めてしまうかもしれない。そんなジレンマを鋭く指摘した点にイリイチの強みがあるのです。
つまり、学校制度がある限り本来的な学びが失われるという問題点が存在するのです。この問題意識は学校制度改革を考える際には忘れてはならない点であるように思うのです。
解決策は「学校」をなくすこと?!
さて、イリイチが批判した「学校化」「制度化」を乗り越えるにはどうすればいいのでしょうか?
面白いことにイリイチは学校制度の廃止を提唱します。制度としての学校をなくすかわりに、何かを教えたい人・何かを学びたい人をつなぎ自然発生的に学習が成立するような「学習のためのネットワークlearning webs」を成立させることを提案するのです。例えば行政が用意する機械(有り体に言えばマッチングアプリのようなもの)に対し、何かを教えたい人・教える力がある人がその旨を登録していきます。学びたい人がいた場合、その人と教えたい人の連絡先を交換することで、教えたい人・学びたい人をつなげていくのが「学習のためのネットワーク」の仕組みです。この仕組みがあれば学校制度は無くてもいいのではないか。むしろ制度ではなく、個々人が自らの欲求や必要に応じて学んでいく社会のほうがいいのではないか。イリイチはそのように提唱するのです。
結果論でもありますが、イリイチの述べた「学習のためのネットワーク」は現在Web上に成立しています(『脱学校の社会』に描かれた「学習のためのネットワーク」をヒントにインターネットが作られたという指摘もありますが、インターネットの起源については諸説入り乱れているため、本当のところはわかりません)。興味関心や必要に応じて検索し、見つけたサイト・サービスから学びを得るという状況が自然に成立しているのです。実際「ストリートアカデミー」というサービスを始めとして、教えたい人・学びたい人をネット上でつなげるサービスはいくつもあります(YouTube上の解説動画も、ある意味で教えたい人・学びたい人をマッチングするサービスと捉える事ができます)。
ただ、学校制度廃止後の「学習のためのネットワーク」という解決法は本書の中でも「後付け」感と「荒削りさ」が否めない箇所です。実際、これまで教育学上において行われてきた『脱学校の社会』に関する批判の多くは「学習のためのネットワーク」についてのものが中心となっています。
思うのですが、イリイチが主張する「学習のためのネットワーク」が仮に成立したからといって学校制度を廃止していい理由付けにはならないでしょう。イリイチはネットワークにより人びとが偶発的に学びを深める機会を重視しますが、それでは最低限必要な知識すら学ぶことがないまま社会に出なければならない子どもも多数出てくるはずだからです。
イリイチは人間の中にある主体性やエネルギーを過大評価しています。だからこそ「学習のためのネットワーク」があれば教えたい人・学びたい人が自然につながり合い、教育関係が成立すると性善説的に考えているのです。
なのでイリイチの発想をもとに学校制度を廃止しようとするのではなく、あくまで補助的に用い、学校教育を補完する存在として、また自分のキャリア形成に役立つ存在として捉えていくほうが適切でしょう。そうすることで新たな学びのあり方が開けてくるように思うのです。
『脱学校の社会』から見たCoSTEPの可能性
イリイチの「学習のためのネットワーク」を見ていて気づくのは自主的な学びの重要性です。自主的に学ぶのは楽しい上に主体的に取り組める行為ですが、これが学校制度などに取り込まれてしまうと途端につまらなくなってしまうのです。
こう考えると、CoSTEPでの学びの意義を再確認できます。CoSTEPでは自主性・主体性が求められます。受講したい人が受講申請をし、面接試験もおこなわれています。CoSTEPを受講すると学びを得ることはできますが、別に学位を取れるわけでもないですし、北大修士課程の修了要件に入っているわけでもありません。ただ知的好奇心や自分の成長のために受講をするという自主性に基づいています。その自主性が気に入って、私も大学院修了後10年を経てCoSTEPを受講することにしました。
学びたい人が教えたい人と自由に関わり合う。学びたい人同士が自主的に学び合う。こういうCoSTEPのあり方にイリイチの理想を観る気がします。「制度化」していない学びというのはこういう自主性に裏打ちされているのでしょう。学びたい人が自分から申し込んでCoSTEPを受講しているからこそ、自主性・活気ある空間になっているように思うのです。もし「修士1年生は皆受講しなければならない」と「制度化」されると、とたんにつまらなくないものに成り果てる可能性があります。真の学びは自主性に基づく必要があるのです。
ラディカルで荒削り。だからこその魅力。
本書に限らず、イリイチの発想はラディカルです。基本的には近代という仕組みの根本否定を提唱する無茶苦茶さがあります。だからこそ面白い反面、現実に落とし込む際にはまた別のシステム設計が必要となるでしょう。
ただ、たとえその粗さがあったとしても「学校制度」それ自体の持つ問題性を指摘した本書の意義はいまだに大きいように感じるのです。
関連図書
イリイチの「制度化」批判がわかるものとして『脱病院化社会』『脱学校化の可能性』がおすすめです。
- 『脱病院化社会』著者名(東京創元社、1979年)
- 『脱学校化の可能性』(晶文社、1998年)
「学習のためのネットワーク」としてWebを活用する発想は『私塾のすすめ』に結実しています。
- 『私塾のすすめ』(筑摩書房、2008年)
藤本研一(CoSTEP18期本科ライティング・編集実習)