特別講師 池澤夏樹 氏(作家・道立文学館館長)
■理科好きの文筆家
科学技術コミュニケーターとは、理科系と文系の界面活性剤、つまり水と油の間をとりもって乳化させるものです。僕自身は理科系の落ちこぼれで、理科好きの文筆業者としてやってきました。科学を話題に多くのエッセイを書き、また書評の仕事では理科系の本、科学啓蒙書をしばしばとりあげてきました。科学に対する関心を維持したまま文学者としての仕事をやってきた、そんなことから、今日は「理系と文系の界面活性剤」というタイトルで話すことにした。
僕は学生時代、埼玉大学理工学部物理学科に籍をおいて、3年くらいは勉強しましたが、だんだん文学の方へすり寄って、そのまま理科系の専門家としての勉強はしなくなりました。大学で理科系に行ったのは、北海道大学の(当時の)結核研究所で教員をしていた伯母の影響です。
若いときには、自分が将来、どのようにして人生を渡っていくか迷うものです。そのとき、自分の身近にいるだれかをロールモデルにするという方法がある。僕の場合、母親が詩人で、本をよく読む人でしたから、家には文学の本がたくさんありました。ロールモデルの1は母親で、そのまま倣うと僕は文学少年になる。もう1人のロールモデルが伯母で、結核研究所といっても実際には生化学が専門でした。
■職業的トレーニングとしての理系の勉強
大学に入るとき、さあどちらの道にしようかと迷いました。僕は文学作品を書きたかったのであって、文学を研究する気はありませんでした。本を読んでいれば作品は書けるようになるのだから、何も大学で教わる必要はない。しかし理科の方は職業的なトレーニングですから、一人では絶対できない。そんなふうに考えて、とりあえず理科系に進むことにしたのです。
僕は幼いころからときどき伯母の家に泊まり、大学の研究者である伯母の生活を傍らで見ていました。伯母には大変かわいがられ、理系の本も文系の本もよく買ってもらいました。生きていれば94歳ですが、20年近く前に亡くなりました。残念なことに、彼女が亡くなったのは僕が芥川賞をとるまえでした。生きていたら喜んでくれたと思います。
埼玉大学では、まず理系の基礎的な勉強をしました。いまでも覚えている名講義がいくつかあります。また物理学実験には夢中になりました。当時、学生ながらに関心したのは、自分たちが出したデータを、指導の先生が平等に扱ってくださることでした。たとえば、ある場所の重力加速度のように値がすでに知られている数値と、学生が計測・計算した値がずれていたとしても、実測されたデータにはそれ自体に価値がある、というわけです。「科学というものは、基本的にはその場で得られたデータから始まるものである。そこにいかなる恣意も混じっていなければ、それは意味があるものである」と、言ってみれば科学の基本原理を教えてもらったのです。
■「科学する心」
その後、生物物理に関心が向いていた時期があり、生物物理学会の学生会員になって夏の勉強会などに行ったこともありました。しかし結局、僕には理科系の何かのセンスが決定的に欠けていたのでしょう。伯母からも、「あんたは(理系の専門家としては)だめよ」と言われ、まあそうかもしれないと思い、大学は修了せずやめました。でも科学に対する関心はずっとあり、小説のなかにそれを持ち込んできたことは少なくありません。
芥川賞をもらった「スティル・ライフ」(中央公論社刊、1988年)には理科系の話題がいくつか出てきますし、その後で書いた「真昼のプリニウス」(同、1989年)は、女性の火山学者が主人公の小説です。「アトミック・ボックス」(毎日新聞社刊、2014年)を書くに際して、資料として思いついたのが、第二次世界大戦中のマンハッタン計画(原子爆弾開発計画)に先立ってオッペンハイマーがつくらせたテキスト"The Los Alamos Primer"でした。調べてみたところ、「極秘扱い解除」などとスタンプを押された当時の生々しい文書をインターネットでダウンロードすることができ、小説の参考にしました。何かと理科に頼ることが多いのです。
「科学する心」という言葉があります。「お茶する」などの例のように、名詞に「~する」をつける言い方は、表現としては比較的新しい印象で、今はめずらしくありません。実は「科学する心」という言葉がつくられたのは、戦前の1940年。言い出したのは橋田邦彦という生理学者です。「科学する心」は、スローガンとして戦後の科学教育に影響を与え、今日でも使われています。しかし橋田自身は、近衛文麿・東條英機両内閣の文部大臣として、戦後、A級戦犯容疑者に指名され、逮捕直前に服毒自殺しました。
「科学する心」とは何でしょうか。