実践+発信

「新興再興感染症対策における倫理とリスクコミュニケーション」(10/23)武藤 香織 先生 講義レポート

2021.11.11

向井真弓(2021年度 選科/社会人)

モジュール4の最初の講義は、武藤香織先生(東京大学医科学研究所附属ヒトゲノム解析センター教授)による「新興・再興感染症対策における倫理とリスクコミュニケーション」でした。

武藤先生は、新型コロナウイルス感染症対策専門家会議のアドバイザリーボードのメンバーとして科学と政治の界面で新型コロナウイルス対策に現在携わっています。今回の講義では、約一年半にわたるコロナ対策の経験に基づいて、主に二つの観点から、新興・再興感染症対策について話してもらいました。一つめの観点は、リスクコミュニケーションという観点、もう一つは、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の倫理的法的社会的課題(ELSI)に関する研究という観点です。

リスクコミュニケーション

武藤先生はCOVID-19リスクコミュニケーションの課題として以下の10個を挙げていました。

① 対策にあたる人々のなかで、リスクコミュニケーションへの理解・信頼が不十分
② 縦割り行政が根強く、政府内に広報と広聴の戦略部署がない
③ 政治の都合により、不用意なメッセージが発せられる
④ 国と地域の首長が発信内容を連携できない
⑤ 大規模な広報には予算と時間がかかり、その間に状況が目まぐるしく変化する
⑥ ソーシャルメディアの課題:フィルターバブル(知りたい情報以外入ってこない)
⑦ 市民が使用するチャネルが多様、あらゆる媒体を活用する負担の重さ
⑧ 報道機関の課題:見出しの切り取り、早撃ちによる誤報
⑨ 迅速なファクトチェックに基づく強力なデマ対策の必要性
⑩ 人々が無関心だった医療・公衆衛生の仕組みがワイドショーのおもちゃに、ストレス解消の矛先に

これらのさまざまな問題に武藤先生は実践で向き合ってきました。以下では、特に「①対策にあたる人々のなかで、リスクコミュニケーションへの理解・信頼が不十分」という課題について紹介します。

コロナ対策にあたる政治家や役人のなかには、リスコミとは気の利いた言葉を放って自分たちの言うことを世の中の人に聞いてもらう活動だと誤解している方がいたそうです。この誤解を解き、リスコミとは、「リスクのより適切なマネジメントのために、社会の各層が対話・共考・協働を通じて、多様な情報及び見方の共有を図る活動」だと理解してもらうのに苦労したと武藤先生は言います。

このような対話的なリスクマネジメントには社会の各層とのあいだの信頼関係が重要です。そして、その信頼を築くためには、情報の速やかな公表、透明性、市民を理解すること、計画策定といった事柄が重要になってきます。中でも、リスクの評価と管理、体制整備をどのように行なうのかについてはパンデミックの状況下で顕在化した論点があったそうです。

リスク評価は、専門家が政府から独立した形で実施し、リスク管理については、リスク評価の結果をもとに政府が政策を決めて実行するというのが原則的な役割分担です。しかしながら、専門家会議がリスコミも含め全てを行っているように見えていたことは問題だったと武藤先生は言います。一方、パンデミックの状況下では、リスク評価と政策の関係は分かちがたく、公衆衛生学が政策の中に入り込んだ学問体系であることもあり、そのなかでリスク評価をいかに信頼してもらえる形で出すかは今後の課題といえます。また根幹的な日本のインフラの問題として、感染者のプライバシーを守りながら感染状況をしっかりと分析してリスク評価に使うことができていない点も挙げられていました。

他方で、リスコミの体制整備としては、東京ICDC(東京感染症対策センター)にリスコミチームができたことは確かに一歩前進です。しかし、リスコミの戦略がなかなか政策に結びつかない現状を考えると、知事の真横に戦略部署を置くなど、政府も含めリスコミを行政の機構のなかにしっかり位置づけることが重要だと武藤先生は言います。信頼を維持するために重要とされる透明性については、政府は決まった政策の公表については迅速でしたが、政府も都道府県も決定のプロセスの説明が十分でなかったと武藤先生は言います。新型コロナウイルス感染症の報告と公表については「一類感染症」の基準に基づいて行うように通知が出ていましたが、「職業」「居住している市区町村」といった公表されるべきではない情報の多くを自治体が公表していました。差別的な言動を受けた方々からのヒアリングや調査から地方自治体による詳しすぎる情報の公表やそれを受けた報道の在り方が偏見・差別に大きく影響していたことが分かったそうです。

新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の倫理的法的社会的課題(ELSI)に関する研究

武藤先生は、厚生労働科学研究費で新型コロナウイルス感染症のELSIに関する研究を現在進めています。厚労省の施策に助言もできる研究班で、地域包括ケア研究班、リスクコミュニケーション班、生命・公衆衛生倫理班、偏見・差別班など7つのグループに分かれて活動しているそうです。

武藤先生は、コロナ対策によって影響を受けるさまざまな立場の方々から意見を聞いたうえで、それらの意見を公衆衛生施策に反映させる必要性を感じ、研究班でCOVID-19に関する意識調査を実施しました。調査テーマのひとつである「感染防止策の実践状況」の結果から、自分がコロナに感染した時の備えができている人が少ないことが分かったそうです。「自分が患者になる」という当事者性の想像が足りていないことが原因ではないかと武藤先生は分析しています。

そこで、患者や家族などから体験談を収集し、体系的にデータベース化する「新型コロナウイルス感染症の語りデータベース」のパイロット版を作成することにしたそうです。この体験談のなかには、幼いこどもを持つ親が感染した場合の困難や看取り・見送りの困難、患者の家族として周囲から受けた偏見や差別など、自分や身近な人がコロナに感染したら、どういうことが起こるのか、これまでメディアであまり報道されてこなかった話も含まれており、今後の対策につながる事が望まれています。

武藤先生は、適時適切に国の議論にELSIの観点から助言し、政府に聞いてもらう方策の仕組みを考えていきたいと思うと強く語られました。

おわりに

「コロナ対策をするなかで、日本で倫理的に大切とされた理念は何だったのでしょうね?」最前線でコロナ対策に携わってこられた武藤先生の言葉だけに胸に突き刺さりました。トリアージなどの明確な指針がないなかで、現場の医療従事者の最終決定に委ねられてきたことに衝撃を受けるとともに、人間の尊厳を問われる問題だからこそ、私たちは対話を積み重ね、真摯に向き合っていかなくてはならないと思いました。武藤先生、ありがとうございました。