実践+発信

「日本の惑星探査機」1130渡部重十先生の講義レポート

2011.12.6

 

 探査機「はやぶさ」が、苦難の道のりの末、小惑星イトカワからサンプルを持ち帰ったニュースは、世界中の人に夢と勇気を与えました。科学の世界の実話が、映画化されるほど人気をよんだのは珍しいことです。

 今回は北海道大学大学院理学研究院教授の渡部重十さんに、惑星探査の歴史と、これまで関わったプロジェクトについて詳しくお話しいただきました。渡部さんは日本の惑星探査のキーパーソンの1人です。
レポート:神村 奏恵(本科・北大理学院自然史科学専攻修士課程1年)
■苦難の連続だった火星探査機「のぞみ」
 のぞみは1998年7月に打ち上げられました。15年前に計画が始まった頃からプロジェクトに参加していた渡部さん。計画段階で特に大変だったのは、軽量化でした。性能を落とさずに重さを設計の1/3にして、さらに耐久性まで上げる必要があったのです。

 また電波を使って探査機をコントロールするのは、電波が機械に届くまで時間がかかるため、ロボットのように探査機自身が考え、自律的に動くよう設計しました。

 宇宙空間ではモーターが確実に動くかどうかわからないため、太陽光パネルは折りたたんでワイヤーで縛り、鋭利な刃物で切って作動させます。刃物は火薬の爆発によって動くようにするなど、ローテクながらも、確実な方法をとっています。
 このように、多くの知恵を絞って完成したのぞみですが、打ち上げ後も、多くの難題が待ち受けていました。最初のトラブルはメインエンジンの噴射力が弱く、火星の周回軌道に乗せるのに失敗したことです。
 その時、この失敗を諦めきれず寝ずにコンピュータルームに泊まり込んで計算を行った大学院生がいました。学生は突然、「明日、軌道変更すれば新しい軌道に入れる」という提案をしたそうです。急な話にプロジェクトチームは再計算する時間が無いと大騒ぎになりましたが,この学生を信じて、マネージャーは自分が全責任をとるという決断を下したそうです。結局、学生の計算は正しく、軌道に乗せるのに成功しました。

 しかし、今度は太陽で巨大なフレアが発生し、のぞみを直撃しました。アンテナが使えなくなってしまい、絶体絶命の危機です。プロジェクトチームは、非常用の小さなアンテナを使って、隠しコマンドで探査機を制御するという裏技でこの危機を切り抜けます。

 ところが最終的には、火星に生物が存在する、あるいは存在した可能性があるため、地球のDNAを持ち込んではいけないというCOSPAR(国際宇宙空間研究委員会)の取り決めがなされ、結局、このルールが決められる前に打ち上げられたのぞみは、2003年12月、火星軌道への投入を断念せざるを得ませんでした。
■金星探査機「あかつき」のトラブル

 のぞみの失敗に落胆した渡部さんですが、すぐ金星探査機あかつきの計画が始まりました。すでにはやぶさの打ち上げは成功していたため、あかつきは、はやぶさをモデルに製作、のぞみの問題点も改善し2010年5月に打ち上げられました。

 しかし、また想定外のトラブルが起こりました。逆噴射のための燃料が足りず、姿勢が狂ったために、あかつきはエンジンの噴射をストップして、全ての観測機械をオフ、非常用の回路だけオンにして、コマのように回転するセーフホールドモードに入ったのです。結局、金星の軌道に乗ることはできず、計画は大きく変更せざるを得ませんでした。

■渡部先生からのメッセージ
 渡部さんはのぞみとあかつきの計画に約20年を費やしました。トラブルの連続でしたが、この時間は決して無駄ではなかったといいます。渡部さんのメッセージが印象的でした。

「失敗には必ず教訓があり、それを技術の発展につなげる繰り返しである。だから原因を究明しないと、次へ進めない」「一つのプロジェクトは10年以上かかるため、世代間での引き継ぎも大切。若い人たちもどんどんレベルアップしてほしい」。

 ロマンに満ちたイメージがある惑星探査ですが、そのプロセスは数々の失敗をバネにさらなる発展を目指す、地道な努力の積み重ねです。こうした研究者、技術者たちの物語をもっと国民が共有できるようにすることも、科学コミュニケーションの重要な役割ではないでしょうか。