岩田 健太郎(2024年度ライティング編集実習/社会人)
今回の講義は江戸川大学マス・コミュニケーション学科特任教授で、現役の科学技術コミュニケーターでもある隈本邦彦先生に、科学と社会の関係、科学ジャーナリストの役割と課題について講義いただきました。隈本先生は、科学ジャーナリストが科学者コミュニティと一般社会の橋渡し役として、双方向のコミュニケーションを促進する必要があると話しています。一方で、現状では科学ジャーナリストの育成が不十分であり、メディアが権力側に偏っている問題を指摘しています。
科学と社会の関係
以前から、一般的には「科学にかかわることは専門家が考えて最善の選択をすればいいのではないか」と考えられてきました。例として、厚生労働省の薬の承認審査については、医療や薬学の専門家が行っています。それはそれらの人が審査をする能力をもっていると考えられたためです。
このように、長年にわたり、科学的な問題解決においては専門家が議論し決定する体制が一般的でした。国民のために最善の選択をするという仕組みが確立され、国の決定のために多くの審議会が設置されてきました。
専門家単独体制の限界と市民の参加
ところが世界は変化し、現在では科学技術力が国力に大きな影響を与えています。科学技術は戦争の武力にも影響し、スマートフォン市場でも技術力のある国の製品が主流となっています。つまり、科学技術が国家の存続と日常生活に密接に関わる時代となりました。
この変化に伴い、専門的判断を専門家だけに委ねてよいのかという疑問が生じています。裁判員制度はその一例で、2009年以降、抽選で選ばれた一般市民が裁判に参加するようになりました。当初は素人の参加に懸念の声もありましたが、実際には恵まれた環境で育った裁判官よりも一般市民の方が適切な判断をするのではないかという期待が強くありました。
一般市民の科学に対する認識の変化
時代の流れとともに、一般市民の科学に対する認識も変化しました。統計数理研究所の5年ごとの調査1)によると、1960年代から1968年頃までは「自然を利用・征服する」という考えが主流でしたが、1968年から1973年の間に逆転が起こりました。1988年や1993年の調査では「自然に従う」という考えが優勢となりました。この意識変化の背景には、大気汚染や水俣病などの公害問題があります。
科学技術の急速な進歩に対して、市民の間に漠然とした不安があります。例えば、高齢者がスマートフォンを避ける理由として「よくわからない」ことへの不安があります。理系の人々はこれを論理的に説明しようとしますが、説明できない場合「理解していない」と考えがちです。しかし、進化心理学の研究によると、不安は必ずしも非論理的ではなく、生存に必要な感覚と関連している可能性があります。
科学者が専門分野に没頭するほど、一般市民の感覚から乖離することがあります。例えば、ほうれん草の遺伝子を豚肉に組み込む研究や、光ファイバーで植物を育てる研究は、科学的には興味深くても一般市民の感覚とはかけ離れています。
科学者は研究の重要性を主張する際、一般市民の感覚を忘れがちですが、このギャップに気づく必要があります。
科学者と社会の情報ギャップ/市民側の科学技術コミュニケーターの必要性
科学者と一般市民の間には大きな情報ギャップがあります。一般市民はマスメディアから、科学者は研究所公開やシンポジウムを通じて情報を得る傾向があり、この違いがギャップの一因となっています。
社会心理学の「精緻化見込みモデル2)」は、人々の意思決定プロセスを説明します。「中心的ルート処理」は詳細な情報収集と慎重な判断を行う方法で、「周辺的ルート処理」はあまり情報を集めず直感的に判断する方法です。日常生活では周辺的ルート処理が多く使われ、人々は信頼できる情報源や周囲の影響に基づいて判断を下します。
このモデルは科学的問題に対する一般市民の理解にも適用され、多くの人々はメディアやオピニオンリーダーの影響を受けて判断します。これは科学技術コミュニケーションの重要性とマスメディアの役割の大きさを示しています。
科学記者養成の現状
現在の科学記者養成は体系的ではなく、多くのメディア企業は「良い記者自然発生説」に頼っています。つまり、記者が自然に勉強して科学ジャーナリストとして成長すると期待されています。しかし、実際には適切な教育や指導が不足しており、記者の能力は偶然の要素に左右されがちです。例えば、良い取材先に恵まれれば成長できますが、そうでない場合は適切な知識を得られない可能性があります。この状況はメディア企業の幹部の責任であり、科学ジャーナリズムの質の向上には組織的な取り組みが必要です。
科学ジャーナリズムの現状
科学ジャーナリズムの現状は厳しく、記者の日常業務は情報収集や定期的なプレスリリース処理、季節的なニュース報道に集中しています。多くの記者は時間と能力を使い果たし、深い特集記事を作成する余裕がありません。その結果、科学の本質に迫るニュースの機会は限られています。
組織的な評価システムも、この状況を悪化させています。毎日原稿を出す記者が評価され、深い取材や分析に時間をかける記者は批判されがちです。これにより、多くの記者は表面的な報道に終始し、本質的な科学ジャーナリズムの実践機会が失われています。
例えば、乳がん治療に関する記事では、統計的誤差を考慮せず、わずかな数値変動を「減少傾向」と断定するなど、科学的理解や分析が不足した報道が見られます。このような報道は読者に誤った印象を与え、科学ジャーナリズムの質の低下を示しています。
トランスサイエンス問題と科学技術コミュニケーション
1972年、原子物理学者アルヴィン・ワインバーグ博士が提唱した「トランスサイエンス問題3)」は、科学技術コミュニケーションで重要な概念です。これは「科学に問えるが、科学だけでは答えられない問題」を指し、現代社会で増加しています。
例として、原子力発電所からの微量放射線の人体への影響があります。高線量の影響は明確ですが、低線量域(1ミリシーベルト以下)の影響は不明確です。科学的解決には膨大な実験が必要で現実的ではないため、社会、政治、経済分野の協議による決定が必要です。
ワインバーグ博士は、科学者は高線量域の影響や線量低下に伴う健康被害の減少は説明できるが、それ以上の詳細は科学的に答えられないと述べています。そのため、他分野の専門家との協力が必要です。
この概念は、科学者が専門知識の限界を認識し、他分野と協力する必要性を示しています。同時に、一般市民も科学の可能性と限界を理解し、社会的判断の必要性を認識することが重要です。
トランスサイエンス問題は、現代社会における科学の役割を考える上で重要な視点を提供し、科学の限界を認識しつつ、社会全体で合理的な判断を下すプロセスの構築がますます重要になっています。
科学技術コミュニケーターの役割について
科学技術コミュニケーターの役割は、当初は科学者と一般社会の間の双方向コミュニケーションを促進することでしたが、実際には多くが研究機関や博物館に雇用され、科学者側からの情報発信に偏る傾向がありました。
科学ジャーナリストは中立的立場で科学者コミュニティと一般社会を繋ぐ役割が期待されましたが、権力側に取り込まれる問題も指摘されています。
今後の科学技術コミュニケーターには、一般市民の立場で科学的知識と情報収集力、コミュニケーション力を駆使し、専門家やジャーナリズムの情報を精査し、批判的視点を提供する役割が求められています。
具体的には、裁判の弁護士のように公平な立場で科学に関する議論を促進し、誤情報や偏見をチェックすることが期待されています。これにより、社会全体の科学リテラシーを向上させ、より健全な科学と社会の関係を構築することが科学技術コミュニケーターの重要な使命となっています。
おわりに
今回の講義は、さまざまな実例をふまえてお話しいただき、科学技術コミュニケーションの重要性と現在の課題を深く理解する機会となりました。また、普段の情報の見方や解釈についても、批判的思考の重要性を再認識し、科学技術コミュニケーターとしての学びは、授業内だけでなく、普段のニュースや情報からも学べることが多いと感じました。レポート内でご紹介出来なかった事例もたくさんご紹介いただいているので、ぜひCoSTEP受講者/寄付者の方は実際の講義動画や資料にも目を通してみてください。
注・参考文献
- 統計数理研究所「国民性の研究」(2024年7月14日閲覧).
- Richard E.Petty, John T.Cacioppo 1986: “Communication and Persuasion.” Springer Series in Social Psychology.
- Alvin M. Weinberg 1972: “Science and Trans-Science”, Science 177. 4045 p.211.