見てください。
鉄パイプの森です。
ところどころさびた、金属製の円筒が、いたるところから生えています。
空は見えません。どの方向に顔を向けたとしても、あなたの視線は薄暗い闇にたどり着きます。
あなた? そうです。この世界にはあなたがいるのです。
この世界は、あなたの存在を許します。あなたは、他者ではありません。主観を持ち、ありありと意志を感じます。
あなたの意志のもとに、肉体が動きます。試してみましょう。ウインクしてみましょう。スキップしてみましょう。手のひらに、爪を立ててみましょう。歯ぎしりしてみましょう。
準備は終わりました。あなたはあなたをつかさどっています。
これから、仕事が始まります。
仕事? そう、あなたは、労働者なのです。
労働の内容はなんでしょうか? 配管工事です。その証拠に、あなたの右手には、レンチが握られています。かなり長い間使っていた道具のようです。あなたとレンチのあいだには、友情が見て取れます。真の友愛があることに、うなずかないものはいないでしょう。
「レンチよ、レンチよ」
あなたはささやきます。
「どうやら、ぼくは配管工事人であるらしい。目の前にある、この鉄パイプの森のなかから、修理しなくてはいけない箇所を見つけ、修理人としての使命をまっとうしなければいけないらしい」
レンチはうんともすんとも言いません。当たり前です。レンチはしゃべることはできませんから。
それでも、あなたは続けます。執拗に、声を出し続けます。できることは、それしかないのです。
「けれど、ぼくはわからない。まったく、わからないんだ。どのパイプを、修理しなければいけないのか。どのパイプが正常であり、どのパイプが、介入しなければいけないものなのか」
返事はありません。まったく、ありません。
あなたは、落胆することなく、黙っています。そもそも、レンチが話してくれるなんて、はなから期待していなかったのです。
それから、何時間が経ったのでしょうか。絶え間ない水音が響き、周囲を支配しています。
隙間から漏れたしずくが、ポトリ、ポトリと落下する音。
鉄管のなかを、水が通過していく、グボボボボという音。
油分を含んでいる水が立てる、ヌチャ、ヌチャという音。
ありとあらゆる水についての音が、そこにはありました。
そこは、水音の動物園、水音の万国博覧会場でした。どの音も他と違い、独特の響きを持ち合わせているようです。ひとつひとつの音は、それぞれ心地よいものでしたが、互いに合わさることにより、さらなる神秘的なハーモニーが奏でられます。
神妙な調べが、あなたの鼓膜を震わせます。まるで、耳元に息を吹きこまれたような、くすぐったい快感がわき起こります。ハーモニーは、労働に疲れたあなたの筋肉をほぐし、安らげていきます。
リラックスしきったあなたは、いつの間にか、安逸な眠りのなかに、溶けていきます。ゆっくりと、まるで巨木が枯れ落ちるかのように、体が地面へと投げ出されます。
大地があなたを受け止めます。毛布のようにやわらかです。あふれ出る水が、土を泥に変えているのですから。
湿った、暖かな泥に抱擁されて、あなたは夢を見ます。
どんな夢でしょうか?
あなたの体は変容します。もはや、人間ではありません。長く、節くれ立った、硬い脚を何本も持つ巨大な生き物です。あまりにも巨大であるため、数多くの感覚器官が必要になり、その情報を統合する脳もまた複数必要となります。そのために、あなたにはいくつもの顔があります。各種の感覚器官をセットした顔が、何個もあり、それら顔のなかには脳があります。さらに、体の各部位ごとの脳を統合する上位脳、上位脳を統合する頂点脳を持っています。部分脳ごとの情報の対立は、ある程度は許されますが、その矛盾が長く続けば上位の脳が介入をしてきます。このように、生物として必要な情報統合を備えつつ、柔軟性を確保しているのです。
いまあなたであるこの巨大な生き物を、なんと名づければよいのでしょうか? 既知の生物とは、遠く隔たっており、メタファーを使おうにも材料がない。そんないらだたしげな思いをお抱えになっているのではないでしょうか?
ご安心ください。周囲を見渡しましょう。
あなたの周りにあるのは、壮大かつ繊細な構築物です。白い、細い糸で編んだ網が、天空の果てにいたるまで広がっています。いくつもの惑星、いくつもの恒星、いくつもの銀河を超えて、網は展開していきます。さらには、天界を超えて、いくつもの宇宙までも、網のなかに収めているのです。
文字どおり、万物は網のなかにあります。
この網を作ったのは、あなたなのです。あなたは、糸を吐き出し、幾本もの脚でたぐり寄せ、渺々たる豪華絢爛な巣を完成させました。
そうです。これは、巣なのです。あなたが安全に暮らしていくための家です。
糸で巣を作る生き物といえば、もうおわかりですね。
ご存じ、蜘蛛さんです。あなたの正体は、大いなる蜘蛛なのです。
あなたは、のっしのっしと、糸の上を大股で歩いていきます。糸には、さまざまなものがひっかかっています。
年老いて動けなくなったアロサウルス。汚れたテーブルナプキン。小学生のときになくしたはずのネズミの人形。遠い未来に、牛と人が交配して誕生してくるはずの生き物。ブラックホールの息吹にさらされている、まだ生まれて間もない小さな銀河。自らの未来に永劫回帰があることを予知してしまったアルゴリズム。
それらはすべて、あなたの獲物です。あなたが紡いだ糸にからみ取られて、動けなくなっています。
それらの獲物に対して、あなたはなにをしようとしていますか? 大きなあごでがぶりと噛みつき、おいしい栄養満点の体液を一滴残らず、すするのでしょうか?
いいえ、違います。あなたはそんな野蛮なことをしたいのではありません。もっと、高尚な使命を授けられているのです。
獲物を分解していきましょう。破壊ではありません、分解です。捕食のためではなく、観察のための分解なのです。
いったい、なんのために?
獲物のなかに、自分自身を作るために。
あなたは、あまりにも巨大であり、全体を一者として見るものはどこにもいません。存在することはできません。あなたはあなた自身を一望できないのです。そのかわり、感覚を統合するものとしての下位脳、下位脳を統合するものとしての上位脳、上位脳を統合するものとしての頂点脳を持っています。ここで注意してほしいのは、頂点脳は全体を見ているわけではないということです。頂点脳もまた、個々の脳と同じようにローカルな情報流動を操作しているだけなのです。けれども、決定的な矛盾に陥る前には、介入がなされます。
あなたの使命は、天下界に同じような構造を作ることなのです。自らをモデルに世界を改造します。これを、世界受肉と呼びます。
なぜ、このような世界受肉が必要になるのでしょうか? 情報悪魔の発生を防ぐためです。
天下界の一部分において、過剰な情報流動が生ずると、どうなるでしょうか? つまり、情報がドロドロになるまで溶かされ、均一に混ぜ合わさられると……?
もうおわかりですね、時空消失が起こります。
情報のスープ、情報の沼のなかでは、ツーといったら、カー。山といったら、川という答えが、万事万物において成り立つのです。万物は、万物に対して流ちょうなコミュニケーションをします。万物があふれんばかりのコミュ力を発揮できます。そのような場では、時間も空間も措定されることはないでしょう。万物のなかに、無限の万物を見ることができます。掃いて捨てるほどある生気(エンテレンヒー)が、万物をぬりつぶします。
生気に満たされた情報の沼のなかは、害虫の産卵場所です。情報悪魔が自然発生します。情報悪魔は、万物のコミュ力を上昇させていきます。これを、逆バベル現象と呼びます。
逆バベル現象が進むと、天下界は、煮立ったスープのなかに投げられた岩塩のように、あっけなく溶け落ちます。そうしたら、せっかくここまで紡ぎ上げた、あなたの巣は消えることになります。
そんなことを防ぐために、あなたは、獲物を分解して、そこに自らを受肉させているのです。
あなたの活動は、スケールによりません。すなわち、どの規模から見たとしても、あなたの世界受肉は続いていきます。受肉した獲物は新たなる世界となり、そのなかで受肉がくり返されます。
あなたは全体を見ることができません。しかし、無限の世界受肉を経てあなたは、あなたの巣をどこまでも広げることができるのです。
そうです。ここで、ようやく、あなたの使命、あなたがなすべきことに気づくのです。
夢から目覚めたあなたは、歩き出します。暗く、寒い空間のなかですが、迷うことは、もうありません。
レンチを小脇にかかげ、鉄パイプの森のなかを、一歩一歩進んでいきます。
これからあなたがどこへ行くか、なにをするのか、それをあなたはもう知っています。
【クレジット】
作:草野原々(SF作家)、SFプロトタイピング:難波優輝(SFプロトタイパー)、イラスト:久野志乃(アーティスト)、実習指導・責任者:原健一(CoSTEP博士研究員)、著作:北海道大学 高等教育推進機構 オープンエデュケーションセンター科学技術コミュニケーション教育研究部門 CoSTEP
SF小説創作共通実習に参加した受講生(50音順):新井麻由、岩尾拓馬、江澤海、大竹駿佑、長内克真、木山瑠夏、福島雅之、向井真弓
本作品は2021年度CoSTEPのSF創作共通実習、本科ライティング・編集実習の成果です。実習の内容についてはこちらをご覧ください。